欧米と日本の比較からみる時間の概念と法律の仕組みの関連とこれからの日本の歩むべき道
「日本では「違法」と「問題がある」の違いが認識されないくいのでは」を書いた後に、「あ、そういえばあれを考えたときは『そういえば英米は判例法の国で、どっちかというと法の執行がより一生懸命に『問題であること』や『妥当でないこと』を違法であるようにしようとしてるのがおもしろいよなー』ってことも考えてたんだ。書くの忘れた…」と思いました。こういうことがないように、書きたいことを思いついたときにはメモをとっているのですが、それでもトリ頭なのですぐ忘れます。
そして、いつもの土日の日課で平日にためてしまった日経新聞を読んでいたら、こんな記事を発見しました。
(イギリスでは)首相の選出でも最大多数の政党の党首に女王が要請する形をとるわけですが、明文規定はなく、あえてルールを決めていないんですね。でも、こうした人間の判断を信じる非成文憲法やコモンローというのが、実は恐ろしいまでの英国の英知なのだということに気づきました。
(中略)
日本の憲法論議が条文があって精緻に突き詰めていって、それで国政を運営するという悪い意味での条文主義に陥っている。
(中略)
自衛隊の問題についても憲法九条に違反するかどうか、英国の英知からすると問題にならない。条文を制定しておれば、それで国がうまくいくわけではないんです。
(中略)
どうでもいいことは規則で決めておけばいいが、人の生き方とか国の運営の仕方とか、根幹にかかわることほど、実は明文規定などできるはずがないんですね。
2006年1月30日の日経新聞のコラム「インタビュー 領空侵犯」より引用。全文は茂木健一郎のクオリア日記の「インタビュー 領空侵犯 憲法論議で忘れていること」でも見れます。
記事によると茂木健一郎さんというのは、今はソニーコンピュータサイエンス研究所にいらっしゃる脳科学者ですが、東大の理学部物理学科を出た後に、東大法学部にも行かれ、その後は再び法律から離れてサイエンスの方面に戻られたかた、とのことです。いやー、私、こういう文系と理系を両方に関心のある無意味に頭のいい人、知的探究心の旺盛な人、大好きです♪大学の先生なんてみんなそんなものかもしれませんが、私が大学時代に所属していた研究会の先生もそういうところがあって大好きです。
しかも、私は大学受験当時に理学部物理学科と法学部とを同時に志望して、両方の学部を受験したりしていたわけです。その後の進路は私は法律のほうが好きで、司法試験を志したりして法務に勤めてますし、物理は高校時代の知識で止まっていて、相対性理論もイマイチよく理解できてませんが、勝手に何か共通するモノを感じます!!
そして、インタビューの内容にも「なるほど!」と思いました。私の英米法について欠けていた視点はそこだったんだと思いました。私は「決まりがあること」が重要だと考えていて、それを社会のモラルのような曖昧なものに依存して裁判官が判断を下す、きちんと書かれた明文化された憲法や民法(制定法)のない英米法がなぜ存在するのかっていう根幹が、いくら本を読んでもうわっすべりをしている感じで理解できませんでした。でも、条文があるから、それがモラルなわけではありません。本質は逆で、法律というのは、みんなが「あれは駄目だ」と思ったことをやめて、「あれはやるべきだった」思ったことを振興する、みんなの価値観を共有するためにあるものです。だから、究極的には条文とはモラルに沿ってできているべきだと思います。
ただ、もちろん、それは憲法のような価値観のもとになるような抽象的な法律にのみ当てはまることだと思います。それをもって罰則を課すような法律が「みんなが悪いと思ったことが悪いです」なんていう曖昧なままの内容だと行動の予測可能性がなくなって、安心して経済活動や生活などが行えなくなってしまいます。だって、行動をする前に色々調べてみて、今の法律や自分の周りの人のモラルには違反しないようだから、その行動を起こしてみたら、「いや、新しい『みんなモラル』からすると、あなたのしてることは違法だから罰を課します」なんて言われたらびっくりです。だから、少なくとも日本では法律を遡って適用する遡及効というのは、かなりの限界的な場合しか適用されない、ということになっています。
なんて話を夫と話をしていてら、「そもそも欧米と日本は時間感覚が違うよね」という話になりました。夫が思うに、欧米のキリスト教的文化というのは一週間を基準に進んでいて、しかも巡回することがありません。ストレートな時間概念です。その証拠に彼らはよく「24/7」と言ったりします。それとは違って、日本はいつまで経っても「24時間365日」といって一年が基準です。しかも、日本の時間は季節がうつろうように循環します。
時間が循環する、循環しないというのは、少し感覚的なのですが、説明を試みようとしてみます。日本では罪を犯したたり悪いことをしたら、それは「水に流そうよ」ということになりますが、それは決してリセットすることではありません。本人は「罪を犯した」という自責の念を背負っていきます。リセットするためには、善行を行うことによって「自分は違う人間である」ということを証明していかなければいけません。また罪がたまったままに亡くなると「地獄」という場所に行くことにされています。これが「循環する」と言葉で言いたかったことです。いつまでも罪はつきまといます。
しかし、私の知る限り欧米のキリスト教的概念では違います。キリストはすべての人の罪をあがなうために、皆の代わりに十字架での磔刑に処された、ということになっています。人が罪を償うのは、おもに罪を犯すことによって不当に得た利得や相手に与えたりしたダメージを金額に換算した財産の移転によって行われます。財産の移転の後は、キリストが皆の代わりに罪を背負うことになります。かの国で自分の非を認めることを嫌がるのは、自分の非を認めることはイコール財産の移転を伴うからです。日本のように「自責の念を持って善行をとむ」という概念がありません。きちんとしたリセットには教会での「告白」を伴う必要があるのかもしれません。死後の世界は一つとされ、キリストが罪を背負っていますので、そこでは皆は幸せです。これが「循環しない」という言葉で言いたかったことです。罪はキリストが背負うことによってリセットされて無になるのです。
蛇足ですが、循環のスパンが長過ぎるという点でインドの時間概念は謎です。死ぬまで罪の清算がなされず、カーストの変更がなされないインドでは時をあらわすときに皆どういう単位を使うのか興味がわきます。
長い時間概念の解説でしたが、そういう二つの時間概念の違いから、制定法(文書で書かれた法律が裁判の基準となる)と慣習法(コモン・ローともいう。書かれた法律ではなく判例が裁判の基準となる)という違いができたのではないか、というのが夫の説でした。
英米では時間の概念のスパンが短いから変化が激しく「法律」という文書にすることに労力がかかります。そして、循環しないから文書化しなくても不都合はありません。日本では時間概念のスパンが長いから変化も少なく文書にするということにそれほどの労力はかかりません。そして、循環するのでその都度法律を見直して、「ああこういう法律だった。こういう基準で適用してたんだ」と確認し直す必要があります。
また、時間の概念とは関係ありませんが、英米は価値観の違う人が多かったからか、相手と会話してコンセンサスを作る、という文化があります。コンセンサスを作った結果できるのが契約書です。だから、英米の契約書はとても長い文書で合意事項が一から十まで書かれています。だから、「お互いのそのコンセンサス」が規範であると考えられれば、きちんとした憲法や民法がなくても規範に従うということは日本人が思うほど曖昧ではないのかもしれません。
翻って日本はコンセンサスを作るというのがあまり得意ではなく、どちらかというと「上から何かを与えられる」という文化です。憲法も国民が作ったというよりはアメリカが日本のために作ったものを官僚が手直しし、「こういう国になるぞ!」というスローガンとして活用されていたのではという気がします。もちろん、それ自体を否定するわけではなく、あの時代にはそういう手法があっていたのだろうなあ、と思います。企業でも社長のやることは会社のゆくべき道、価値観を決めること、と言われるほどスローガンというのは重要だと思います。
いきなり「欧米」が「英米」になったことに気づいたかたもいらっしゃるかもしれませんが、欧州でもフランスやドイツは制定法の国で、日本が法律を作るときに参考にした国になります。だから、キリスト教的時間概念が慣習法を成立したのでは?という議論は当てはまらないので意図的に除きました。私の議論では時間の概念を「キリスト教的」とひとくくりにしていますが、制定法と慣習法の違いがあることを考えると、英米と欧州では時間の概念の違いがあるのかもしれません。もしくは、時間の概念と制定法、慣習法には優位な関連性はないのかもしれません。
そこで、これからの時代を見据えてみると、インターネットの出現や交通手段の発展によって、お互いの国や文化同士が近くなってきました。また変化の単位も短く速くなってきました。これからの時代は変化の短いときにも耐えられる英米的な概念の導入がある程度避けられないのではないかと思います。特に、スローガンを与えられるのではなくコンセンサスをつくるということに慣れるということと、憲法などの抽象的な価値観に触れるような憲法や法律の改定について議論するときに、文字をいじってるのではなくて、文化をいじってるのだということを体感するということが重要だと思います。
私が「日本では「違法」と「問題がある」の違いが認識されないくいのでは」で国民にもっと法律の教育をして欲しいと述べたのは、法律というのはコンセンサスの結果出来ているものだから、どういうコンセンサスがあるのか知ってほしいし逆にコンセンサスであるべきものが法律になっていないならそれを変えることを考えてほしい、ということと法律を変えるというのは文化を変えるという重要なことなのだからもっと興味を持って欲しいし、限られた人だけが弄ぶべきものではない、という思いが奥にあったのかなーと自己分析してみました。










